新勧の果て

今回の新勧で学んだ最大のことは「私は全くオタトークが出来なくなってしまった」ということです。日記では饒舌ですが、これは他者を「想定して」書いているだけであって、会話すると言うのは他者と「対面して」話すと言うことですから、全く性質が違うのです。
対面するということは目の前に人格が出現すると言うことなので、好き勝手に語るだけでなくて、同時に相手に気を遣う必要性があります。だから自分の言いたいことを一方的に言ってしまえばお仕舞いという訳にはいきません。
そもそも、オタトークと言うのは「知識の自慢大会」という節がある。いかに自分が知識を持っているかを他者にひけらかして自己満足に浸るかが目的、とも言えるのはまた真実。でもそれを一方的にやるのは相手を「人間」として捉えていないからこそ出来てしまうのではないでしょうか。だって、それは相手にそれだけのことを話しいることに「他者の聞いている保障」が欲しいだけで、目の前の人格は誰でもいいわけですから。
こういう自慢大会をある種の「コミュニケーション」として確立させるには共通の合言葉を使うのが常套手段でしょう。種死は「駄作」。京アニは「神」。シスプリは「ウニメ」。ひぐらしは「傑作」。でもですね、これらのコードによって語られる会話って案外不毛だったりするんですよね。コミュニティに参加してる気持ちにはなれても、人と「会話をしてる」気持ちにはなりきれない。
お互いが、アニメなりのオリジナルの意見を述べ合って有意義な会話を出来るケースは稀で、基本的に『一方的なサンドバックトーク』か『合言葉を利用した仮想の共通認識』によるものが多いと思う。
でも、ですね。やっぱりお互いが気持ちよくなれるオタトークをしたいじゃないですか?今まではそういうオタトークの可能性が見つからなかったので、オタク同士でも敢えて日常ではオタクっぽい話は避けてきましたが、それじゃなんも解決しませんね。もう少しこの問題については色々考えてみます。