涼宮ハルヒの憂鬱 第10話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ」 ★×7

現時点での私から見た涼宮ハルヒの人間像について。


涼宮ハルヒは、自分のためにしか努力はしたくない。親切心やら礼儀やらの、世間では尊ばれる実感の無い一般感情なんかのために身をすり減らす気はさらさらない。おそらくに、礼節やらの感情は所詮、自分の心を守ろうとするちっぽけな自己防衛心理の延長上に存在するに過ぎないことまで自覚してのこと。
それでいて成績はよかったり、一通りのスポーツはこなしたりと、自己管理能力は普通よりもかなり高い。思うに自分のための努力はけして惜しまない。自分のためなら巡回コースを一人で回るくらいのことはするように、基本的に「自分のため」を原動力とした行動にのみ興味を示す。
逆に他人のことは非常に即物的に捉えているのかもしれない。自分の成すべき行為を実行するための手段、道具として。それはおそらく意識的でなく、無意識的な範疇で。思うに、本当の意味での「他人」とはハルヒは出会ったことは無い。自分の意思に従属する、脳内で都合よく改変された他人としか未だ出会っていない。本当の意味で「他人」と対立する経験を経ていないので、「他人も心を持っていて、色々考えている」ということが、まだ理解できないで高校生になってしまった模様。
その点、自分の思い通りになる世界、他人との調和を保てず思い通りにならないのを逃れるための箱庭として「SOS団」を作ったとも言える。それは逆を言えば、社会では「わたくし様理論」が通用しないという限界性を自覚しているからこそとも言える。箱庭でしか個人は個人らしくたり得ないことの自覚。
おそらくにハルヒは人よりかなり頭が冴えていた故に、中二病の作り出す社会を否定する屁理屈がすでにハルヒと言う人間を構成する体系的ロジックにまで完成している。その上確かにハルヒの言うことは一面的に社会の矛盾をピタリと言い当てている点、机上の空論ながらも完成度は高い。もし社会の矛盾に寛容たるが大人というなら、極端な人間完成を目指した完璧主義故の稚拙さがハルヒの偏屈の原因。
だからと言って、ハルヒは哲学者でなければ霞をとって食べる仙人でもない。人並みの欲求はあるようで、恋には興味はあるし、死を忌み嫌う人間的感性は持ち合わせている模様。(道徳心は無いけど)異常精神としての有り得ない人間像でなく、どこか人間らしさになぞらえたものをハルヒを通して描こうとしているようにも思われる。
要は、自分らしい生き方の出来ないこの世界を嫌っているように見える。不思議なことを求める心理にはアミューズメントを求めるのと同時に、個を圧殺する社会制度の破綻への希望も同時に垣間見られる。奇想天外で滅茶苦茶な出来事が起きて、「普通」のものさしで測られた日常なんて壊れちゃえばいいな、って。自分の言いたいこともやりたいことも出来ない世の中から、もっと自分が自分であり続けられるセカイになればいいとも思う。世界に合わせて自分が変わるくらいなら、世界が自分に合わせて変わればいい。それが自分らしい生き方だ、と。
世界の提示する枠組みより、人間個人の想いの方が上位に決まっている。その考えは「人間の人格尊重」の点においてはヒューマニスト。ただ、開放される個性にハルヒ自身しか組み込まれておらず、それに合わせて周囲の人間、事物が変化すべきと思っている点においては独裁主義。果たしてハルヒはこのロジックの矛盾に自覚的なのだろうか?


そうするとこの作品は「他人」と出会うことが終着点と考えるのが妥当なのだろうか。ハルヒの世界に未だ「他人」が現れた事が無いから、自己世界を「コースどおりの完成」に導くことに耽っているようにも思える。だから謎の転校生やら、密室殺人やら、すべて「予定通り」に固執する。「他人」=コースを乱すものと現時点では位置づけられている。しかし、少なくとも前回の14話を見る限り、他人に情愛をもつことにより、優しくしたいと願う気持ちは芽生えたようにも思う。ロジックを越えて他者への感情が勝った、との宣言が気づかれぬようキョンを気遣うハルヒの姿の中になされたようにも思える。
まだ若干のブレはあるが、自分らしく生きることと「他人」との出会いの関連がこの作品のテーマだと現時点では解釈できる。「他人」と出会って自己世界はどう変わるか?そう思うとすごく青春してる作品なのかもしれないな、これは。