仮面ライダーカブトに対する私的見解

タイトルどおりや。私がカブトに対してどんな風に考えているのか、混乱があるようだから、そこを明確にしておく。
私は第3話までのカブトは教養によくないと考えている。理由は、天道の論理が子どもには理解できずに、表面的な強さだけをヒーローの構成要素と解釈し「強いことが正義」と、少年たちが思い込むことが懸念されるからだ。
子どもたちが陶酔するようなヒーロー像を提示するのはよいのだが、ヒーローである以上は常に模範的でなければならない。何故なら、子どもには思想を淘汰する力がまだ無く、大人である我々が作り出した「ヒーロー」が、健全な思想を、子どもたちに受容される形で示す義務があるからだ。子どもたちは提示された像をそのまま吸収するし、それは彼らの世界観を今後規定するような根本概念になる。汚いことは大人になればいくらでも学べるが、綺麗なことは子どものときにしか学べないものがほとんどだ。だからこそ「子どもたちに分かる形で」、「健全な正義の姿」を示す必要がある。
その点、第4話のカブトでは、天道は明確な形で「愛」を唱え、明確な形で相手の意思を尊重する態度を示した。以前にもそういう動きはあったという意見もあるが、子どもにも分かるレベルで顕在化したのはこのときが最初だと私は考えている。
第7話における仮面ライダーザビーの登場により仲間の尊重が唱えられ、二大ヒーローの対立の構図が作られながらも、仲間がいることで強くなれること、仲間を思いやることが「勝利」に不可欠だということを伝えたいという製作者の意図が示された。少年は常に「勝利者」でありたいと思っている。それは内在される自己顕示欲の現れであり、成長過程としてはごく健全なことだ。だから少年は「勝利者」の論理についていくのが自然なのだ。だからその時点でヒロイックに描かれた勝利者がザビーであったことに私は安心感を覚えていた。
しかし、今回の第9話において、ザビーは変身する者の資格を失う。これは短絡的に考えてしまえば「仲間で戦う者より、一人で戦う者が強い」と言ってるように聞こえてしまう。ただ、本当にそうなのだろうか?加賀美を助けようとした天道の行動は私利によるものではなく、他者への救済である。これは製作者が「一人で戦うこと」に「仲間で戦うこと」以上の正義の論理を見出そうとするプロセスにも捉えられる。あるいは次回予告で加賀美がカブトとの協力の意思を示すことは「仲間と戦うことを認める天道の精神的成長の第一過程」とも捉えられる。
矢車という存在を否定してまで示したいビジョンが明確にあるというなら私はカブトという物語を見守ろうと思う。しかし、早急にそのビジョンが示されずに、曖昧なものとなってしまうのなら、やはり私は子どもには「仲間といることの否定」と映ると判断し、カブトを批判する側の立場に立つと思う。
現時点での私の見解はこんな感じです。