総括:ゼーガペインと思春期の成長物語について

以下に述べる内容は独自の論なので、そのつもりで読んでみてください。
以前から私が述べていた「ゼーガペインを、少年が思春期を経て大人になっていく成長物語」として捉える視点で章立てした場合、おそらくこのアニメを章ごとに大別すると5つに分けられると考えられます。本作がどのように思春期の成長物語なのかを提示するため、その章立てを挙げてみようと思います。

  • 1〜6話 青春の最中のこと

ここがイントロダクションの章であり、未だ現実の真実に直面していない、何も知らない子どもの時期といえましょう。今おかれている状況に無自覚ゆえ、拙く、見ているこちらがもどかしくさせられたりもする。いわゆる、ゼーガペインを面白いと言わしめた第6話の「幻体」までの「作品が化ける前」ですね。今思い直してみれば、この時点でキョウの行動は無目的で、その場の興味や成り行き次第で戦う姿が軽率に見えた=作品自体も無軌道である、と感じられたのでアニメが面白いと感じられなかったのかもしれませんね。
この時点でシズノは幻想の女性、いわば思春期の幻想として現れていることからも、青春の最中であることがうかがえます。また何も知らず上海サーバーが消えたことを軽く考えていたこと、ゼーガのデータを奪われたこと、ここでしてしまった無知故の過ちが後から響いてきますね。これも一種の若気の至りといいましょうか、今となっては考えられないミスですね。

  • 7〜12話 青春の絶頂期のこと

私的には特にゼーガが面白かった時期。世界の成り立ち・真実を知ってしまって当惑し、どう生き抜き、どう立ち向かえばいいか分からず、必死にもがいている時期。他人とどう向き合うか、身近な存在とどう付き合っていくか、自分を取り巻く人間がいなくなることをどう受け入れるか、世界(社会)の矛盾をどう捉えていくか、目の前の大切なものをどう守っていくか。思春期に立ちはだかる、ありとあらゆる問題を網羅した、まさに青春時代の苦悩と思索の全てのような章だと思います。詳しくは過去のゼーガペインの感想を見てみてください。
部活に友情に恋愛。全てが順風満帆に進み始め、おそらくに人生で最も楽しかった時期を想起させる。特に12話にカミナギと世界の果てを見に行く場面は青春の最後の一枚として眩しすぎるくらいですね。

  • 13〜16話 青春の終わりのこと

カミナギの死を境に始まる、否応無しに子供でいられなく時。この章から「何故大人にならなければならないのか」という問いが突きつけられる。これはこの作品全体を統括する問いであり、今もなお解答の示されていないものだと思われる。繰り返される夏=永遠の青春時代のカラクリを知り、モラトリアムの終焉を余儀なくされ、同時に仲間との離別も意味するエピソード。
カミナギが障害を抱えることで、大切だと漠然と思っていたものを「どう守るか?」という現実的選択肢を問われることとなり、同時にそれがこの章の最大のクエスチョンでもある。そしてデータリセットとともに、提示される青春はキョウにとって無味乾燥なものとなり、青春が終わる。高校生活にありながら、楽しいことを楽しめなくなり心がしぼんでいく様を成長となぞらえた点が秀逸。

  • 17〜20話 大人たちの思惑

作品としての、世界観に対する謎の提起と同時に、知らないところで存在している思惑にキョウとカミナギが翻弄される所。
ここでキョウは実体も持たない自分の存在、現実に行き詰まり、そしてその壁を突き崩して夢を現実にしようと決意する章。言い換えれば現実を自分なりに噛み砕き、自己実現に目覚めた章。
最後に幻想であったシズノという女性が、現実に生きた女性として描かれるエピソードが付随される。



そして前話からが終章にあたるエピソードなのだと私は解釈しています。思想的対立を孕むも、集団の中に帰属して一つの目標を達成する筋道からは、大人という社会で一つの目標=自己実現に向かおうとする姿を重ね合わせることも出来ます。そして未だ明確な答えの出ていない「何故大人にならなければならないのか」の答えもおそらくそこにあると思います。
私的見解としては、ガルズオルムが無自覚に大人になってしまい、大きな考えに追随するように作り変えられてしまった、社会の歯車としての大人の例えだと思っています。ガルズオルムの巨大性から考えても、社会の例えだと考えていいと思います。そしてセレブラムが自己実現に向かう意志を放棄していない子ども達の集まり、肉体を取り戻した人類が目指すべき最終目標=自己実現した大人の姿と考えているのですが、どうでしょう?
そしてそこで行き当たるのが、肉体を取り戻しても、このままでいても幸せになれないカミナギの存在であり、ガルズオルムでありながらセレブラムに回ったシマの選択の意味であり、あるいはカミナギと対比されつつ、どちらが本当の実像のなのか揺れ動くシズノの正体であったりするわけです。まだ問いも多く残されていますし、滅ぶか、人間になるか、それ以外の第三の選択肢も示されうるかもしれません。