がくえんゆーとぴあ まなびストレート! 第3話「月曜日じゃ遅すぎる」 ★×7

毎回、性倒錯するっていうのも疲れるんで、今回はマジメに語ってみますかね。
でもその前に、今回のサブタイトルの「月曜日じゃ遅すぎる」っていうフレーズがめちゃ気に入ってんねん。世間一般では月曜日っていうのは、憂鬱な日と位置づけられている訳で。そのアンニュイなニュアンスと、それを打ち消す「遅すぎる」っていう言葉が、爽やかでいいねん。そして月曜日って仕事始めな訳で、日曜は休んどきゃいいんですよ。でも、暗にこの言葉には日曜を割いてでもやらなきゃいけない仕事があるっていう、前向きな義務感があって良い。若々しい。それと、友達と会うのが待ちきれなくって、月曜日が楽しみで楽しみで仕方がない。未だ学校生活が倦怠感を帯びていない、そんなキラキラな小学生のスクールライフを想起させるところが好き。これってまなびの作品性とピッタリやん?わいも今後小説を書いたりするんだったら、これくらいのタイトルは付けてみたいものですね。


今回はいただけないポイントがあったな。ドッジボールの練習の場面で、体操着がめくれたり、お尻をアップにしたり、露骨に女子生徒を性的な意味で描写していた場面があったでしょ?あれはいただけない。
何故なら、この作品の魅力って言うのは、いつもの日常の一場面である学園生活を、覗き見ているような感覚だと思うんですよ。彼女達は普通に生活を送っているのを覗き見ている視点。だから決して、露骨に視聴者を意識した行動っていうのはあっちゃならんのかなぁ、と思う訳ですよ。なのに、上記の場面は明らかに「視聴者サービス」を意識させるような描写だった。それがいただけない。前回のキャプを見てもらえれば分かると思うんですけど、別に彼女らは視聴者を喜ばせようとカワイコぶってるわけじゃあない。彼女達が自然とやった仕草や行動が、結果的に視聴者を喜ばしてしまっているに過ぎない。少なくとも視聴時に制作者の作為性を感じさせてはいけない。ここらへんは制作者にも意識して作ってもらいたいところ。
まなびが屋上で壮大に学園祭を語る場面には賛否両論があるでしょうが、私的見解としては「間違ってはいない」と思います。何故なら、言葉で説得するやり方は小説、あるいは漫画でやればいい訳で、アニメで冗長に学園祭の素晴らしさを語るのは話の流れを滞らせるに過ぎない。
じゃ、アニメに出来る説得の仕方って何ぞや?といえば、映像の動きや表現で「よく分からないが、勢いに負けて納得させてしまう」っていう、強引なやり方が一番メディア特性上しっくり来る。だから、学美が突然天使になって飛び回っても、それは全然OKな訳です。むしろあそこで学美が何を言っていたのかなんて覚えてる人はほとんどいないはず。おそらく、話はそこそこに、学美がなにやら凄いことをしているという絵の方に、意識が持っていかれてたはず。
「アニメなら何が出来るか?」ということに自覚的で、それを実践できるという点で、ユーフォーテーブルは好きです。最近の原作付きアニメ群じゃ、原作の台詞をそのまま丸読みさせるだけで、アニメである意味は?というのも多々ありますし、そういう状況にあっては、この試みをあえて評価したい。
あと、思ったのは、明らかに聖桜学園の生徒だけが見た目もさることながら、思想的に小学生のそれだなぁ、というところ。まぁ、このことからも分かるように、あえてこの作品のテーマを掲げるとすれば「子どもみたいな考え方でしか出来ないこともあるんじゃないの?」ということでしょう。学美たちだけが極端に小学生のような容姿をしているのも、彼女らが子供性の象徴であるからなのは明らかな訳ですし。
仮にも学美たちは高校生な訳で、それじゃ上手くいかないのが現実でしょう。しかしあえてその上手くいかない現実を、現代の教育でよく説かれる「個の尊重」というもので引っ掻き回してみようぜ!ということがこのアニメの目指すところか。
元々が教育の崩壊を世界観に置き、各々が学ぶ方向を模索し始めるという、極端にコミカライズされた非現実的なストーリーの中で、あえて、いま現実で叫ばれる「ゆとり教育」を武器にして、ファンタジーな不条理な世界を、現実に公で認められているキレイゴトという価値観で生き残る。もはや、ゆとり教育を応援してるのか、馬鹿にしてるのかよく分からない、でも現代教育の世相を「アニメ化」したらこんなんなるとちゃうん?というある意味意欲作。
そういう意味では学美のことを「ゆとり教育タン」と、びんちょうタンみたいに言い換えても差し支えなかろう。あくまで私的見解ですけど、現代学校教育の擬人化=まなびストレートっていう、わりとアホなヲタ精神にこの作品は根ざしてるんじゃなかろうか。