かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜 第11話「やす菜の瞳から消えたもの」

残ることあと一話となったかしましな訳ですが、今週の話を見て言いたくなったことがあるんで、アニメ感想日記らしく感想でも書くとしよう。

これを見てる皆はやす菜と、とまり、どっちと結ばれて欲しいと思っているだろうか。
私は「やす菜」と結ばれて欲しいと思っている。それは別に、ほっちゃんが好きだからだとか、やす菜が萌えるだとか、そんな理由ではない。
私はそんなに良心的な目で彼女らを見守ってはいないのだと思う。私は相当歪んだ人間だから、もっとロジックに基づいた理由からそう願っているのだ。
やす菜とはずむ、とまりとはずむ、この人間関係を比べたとき、やす菜とはずむの関係は実に欠陥だらけだと私は思う。
やす菜がはずむを求めた理由は「男の認識できない世界において、唯一『異性』として自分の心の埋まらない部分を埋めてくれると思ったから」だろう。このことを言い換えれば「異性に対する欲求を満たせる人間ははずむしかいない。もし、この機会を逃したら生涯異性を求める心は満たされない。だからそういう心の欠落を免れるためにもはずむという人間を一生手の届くところに置いておかなければならない」と言い換えられる。その「はずむしかいない」という状況を後付け的に「運命」だとかの言葉で美化することも、また可能だろう。
つまり、やす菜は自分の欠落を埋めるのに都合がいい人物が偶然にも目の前に現れたからはずむを利用することを選び取った、私はそう考えている。だからとまりの言うとおり「やす菜には、はずむが必要」なのだ。
次にはずむから見たやす菜であるが、作中で「やす菜ちゃんは僕が守ってあげなくちゃいけない」と何度も言い聞かせる場面がある。けど、はずむは慈善の人かといえば、作中の言葉を借りれば「結局、自分が傷つきたくない人」なのである。これは何を意味しているかと言えば、「やす菜を守っている自分」がいることで、精神的に自分の価値を決定付けようとしているのではないかと私は推測する。簡単に言えば「やす菜ちゃんを助けてる自分って立派だなぁ」と心では思って満足しているのではなかろうか?自分を傷つけないことを優先する彼なら十分考えそうなことである。
相互の立場からはずむ、やす菜を見てみると、お互い結ばれることで最も自分にとって都合のいい相互依存の関係、共依存が成立する。共依存というのは、精神病とはいかないまでも心理学的には実に不健全な状態である。
それに比べ、とまりとはずむの間には「幼なじみ」という、我々の知らぬところ所で積み上げられた関係性があるため、少なくとも作中で描かれるお互いを求める理由は、「今までもそうだったように、これからもずっと」というような、もっと自然なものだ。

で、それでなんでやす菜が選ばれて欲しいのかというと、私は健全な恋の感情、健全な愛情とかの類のものは信じてないからだ。別に先週の無如意邸でもあるまいし、自分の恋愛論を語るつもりは毛頭ない。だから端的に言えば「恋も愛も、独占欲を『道徳』だとか『人間性』で飾り立てたもの」と捉えてる。それを認めたうえでも、相手といっしょにい続けたいと思うのならそれもいいと思う。
でもそれに無自覚なのは愚かだと思う。でも、今私が相手にしているのは物語だ。物語は現実のロジックとは違うので独占欲を露骨に介さない愛も書けてしまう。この場合、それが「とまりとはずむ」だ。そして現実のロジックを元に構築した関係が「やす菜とはずむ」なのだと考える。
やす菜ととまり、この二者には「現実と物語」のロジックの対立があると思う。その二つを比べたとき、とまりと結ばれるという終わり方ではあまりにキレイ過ぎないだろうか?美化されたビジョンをそのままに受け取るのでは、まるで園長だ。むしろやす菜とはずむの、事実を暴いた関係で終わるほうが快い。わたしはそう感じるからやす菜とはずむが結ばれる方がいいと思う。
でも、この手のアニメは「どっちも好きだー!!」で終わる気がする…。むしろそうなるに一票。もしそうなったら「やっぱりあかほりか…。」と呟くだけだ。