かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜 第12話「やがて恋がはじまる」

前回の私の感想、覚えてるだろうか?『むしろやす菜とはずむの、事実を暴いた関係で終わるほうが快い。わたしはそう感じるからやす菜とはずむが結ばれる方がいいと思う。』
スタッフの皆様、この終わりまで導いてくださり、ありがとうございました!!本当に感謝してます!!まさに私の思い描いたどおり、理想の最終回になりました!
わりと「微妙」という意見の多い最終回ですから、せめて私だけは褒め倒そうと思います。
とまりでなく、やす菜を選んだはずむについて。前回も言いましたが、私の意見は意外と傍観者的です。はずむがやす菜を選んだというのは一種の象徴行為だと思うんですよ。それは前回言ったとおり、物語の論理でなく現実の論理を選び取ったことでもあり、それは同時に「女の子」になったことで許されてきた幼少的な「優柔不断」とか、誰かが何とかしてくれるという「甘え」とか、そういうものを振り切って、他人と関わりあっていく現実的意味合いを受け入れられる「大人」になったことでもあります。
正直なところ、はずむがやす菜もとまりも好きなのはどうしようもないし、私の見る限り文芸的設定上どちらか一方が選ばれなければならない絶対的な理由も存在していません。そうなると視聴者の顔色をうかがって人気の高いほうと結ばせる方法をとらない場合、作り手がどちらを選ぶかによって、何を描き、何を伝えたかったのかというメッセージに依存すると思います。
この物語の主軸は恋愛模様ですが、もうひとつサブテーマと言いましょうか、それははずむの「子ども」から「大人」への成長自体だと思います。
ところで、はずむが「女の子」であるのに対して、そこまで百合の香りがしていたかというと、多分そうでもないと思うんですよね。女の子同士という禁忌が問われる訳でもなく、やす菜やとまりと結ばれるのが不健全だ、なんてことを言われることもありません。だから、恋愛模様に関しては一般の少女マンガのそれとかと大差ないと思います。
はずむが女の子なのは見目麗しい効果が一番ですが、それと同時にはずむという人格の甘えの体現でもあるな、と。女の子であるだけで作中ではいろんな甘えが許されているし、それと同時に視聴者が「可愛い女の子だからあたふたやったり、おろおろしたりしててもいい」と甘やかしてきた部分があるんじゃないでしょうか?あれが「男」だったら本当にそんな良心的な目ではずむを見ていられたでしょうか?でも、流石に11話まで至ると状況が好転しないことがはずむの責任であることを視聴者も自覚し始めたように思います。各アニメ感想サイトを見ながら、そこらへんの視聴者のはずむに対する意識の誘導が実に上手いアニメだなぁと、私は思いました。
そして、「女の子」と定義され、同時に甘やかされたはずむが、11話を経て、今回の話でとまりによって「男」と再定義されることでやす菜を選び取る。つまりですね、やす菜を選ぶことで、ようやく男になれたんですよ。多分、とまりを選んでいたら、母親みたいに優しいとまりのもとでずっと「女の子」として生き続けたんじゃないでしょうか?はずむの女の子のような人格を作り上げてきたのは、世話焼きのとまりに因るところがおおきいですから。
とまぁ、長々と書きましたが、やす菜を選択することで「母子のような甘い人間関係の幻想を捨て、利害の仲にある他者との関係を選んだ」かしましはオタクアニメの中では取り分け竹を割ったようにまっすぐなアニメだと思いました。