ゼーガペイン 第7話「迷える魂」 ★×5

今回から劇的に変わるかと思っていたのですが、そうでもなかったですな。ソゴルはもっとやけっぱちになるのかと私は思っていたのですが。彼にとって世界が作り物と分かってもそれは、思春期の袋小路に差し掛かった程度のもののようで。多分それがこの作品の本質なのでしょうけど。


つまり私はこう思うんですよ。他人がこの世界に存在しているかどうかなんて、本当のところ証明しようがないじゃないですか。例え目の前に相手がいたとしても、「それ」に本当に人格と呼べるものがあるのかどうかなんて分からない。どんなに何か考えているように見えたところで、私という存在が受容出来る他人の発した情報なんてのはごく表層の、ごく断片的な部分に過ぎない。どんなに深く話し合って、どんなにその人のことを昔から見てきていても、「その人自身」と呼べる決定的な全人格存在を認知するのは不可能。『おそらく他人には「人格」と呼ばれる何かが存在していて、それが目の前の他人に行動させ、言葉を発せさせているのだろう。』そういう風に勝手に想像しているに過ぎない。
言ってしまえば、この日記書いてる人間だって、どうして「私」っていう人が書いていると言い切れるんですか?ontai-producerという人の書いた、ontai-producerという人格が発した考え、そう勝手に想定してるだけじゃないですか。もしかしたらこの日記は今まで別の人が書いてたのかもしれないですよ?それと同じで、目の前の人が発している言葉や行動が「その人自身の人格が発したもの」とどうやって証明できるんですか?そういう風に決めたつけたほうが都合がいいからそう考えてるだけじゃないんですか?極論を言えば、自分以外この世に存在していない、そういう風に考えることも可能なんじゃないですか?


とまぁ、今回のゼーガペインが言いたかったのは多分こういうこと。いや、なれない文章書くと疲れる(汗) でもこれって案外高校くらいのときにみんな経験した悩みだったりしませんか?実に青臭さの漂う悩み。だから私は思うんですよ「思春期の袋小路に差し掛かった程度の悩みがこの作品の本質」だと。思春期の特有の哲学的に世界を見つめる視点がこの作品の尺度そのものかな、と。あまり断言出来ませんが。


ということでこのアニメの深い考察は哲学専修の方に任せた!よろしくな!シュッ!!