ハチミツとクローバーⅡ 第11話 ★×8

ざっと感想を見て回ったところ、この終わり方には賛否両論というところですね。恋物語としての完結を回避したと捉えるか、花本先生に恋心を認めるか、自己実現を選んだ強い女性像と捉えるか、そういったところでしょうか。
個人としては、はぐが怪我をしてからの流れを、はぐの一連の成長物語として捉えたい。思うに、多くの常識によって提示される選択肢の誘惑があったと思うんですよ。「当然才能があるのだから、世のためにそれを生かすべき。」「女なのだから、男と所帯を持って幸せになるべき。」「親(のような人間)からいつまでも独立しないで甘えてはいけない」とかね。
要は私の場合、はぐが世間一般で当たり前に考えられるる幸せ像や、やってはいけないこと、それらをどうやって振り切って、自分にとって本当に幸せだと思える最善の選択肢を選べるようになるかの、心の成長物語と捉えているのですよ。
絵が描けるようになったら、少なくとも社会的地位を欲していないはぐならあるいは、田舎に帰ってひっそりと暮らすのかもしれないし、大学に残って講師として絵を描くかもしれないし。どっちにしても才能を腐らせたと世間の風当たりは非常に冷たいでしょうし、社会的に見たら「負け組」ですね。それでも絵を描き続けるはぐをあるいは「何を意固地になっているのだろう?」というのかもしれません。
つまるところ、はぐは常識の範囲で考えられうる幸せのための手段をあえて選択しないだけの意志決定の力を手に入れた故、社会の風当たりも気にせず、男とくっつくというノーマルな幸せを否定して(そこには森田との恋愛感情が絡むので、もっと理由は複雑ですが)、その上で、気配りや理知的な判断や恥の一切を捨てて、人生を下さいと花本先生に告白したのだと思うわけです。
私的にはこれは恋愛モノとしては一種の革命でしたよ。何故かと言えば、「三角関係は必ずその内の関係に帰結する」という伝統的結末を否定して、その三角関係の外に、感情に任せた恋の結末でなく、打算半分・愛情半分の結末を女性の手で選び取った訳ですから。純愛モノでありながら、ここまで打算的な結末を選んだのは、私の知るところこの漫画くらいです。
それと同時に「自分の自己実現のために、親元に居座ってすねかじってでも、絶対自分のために生きてやろう!」というのは働く女に代表されるような現代的な女性像でありながら、「自立する力がないことを受け止めよう」というシビアさがある故に、ドラマなどの「自立した女性像」より、さらに先進的とも受け取れますよね。この選択に比べたら自立した女性はやっぱり夢物語ですよ。


はぐの物語としての解釈はこのへんにして、花本先生派の一人としては今回の選択は非常に喜ばしい限りです。一言で言えば、花本先生の勝利は「人間全ては悲しみに帰結する」ということへの反逆であり、「人間生きていればいつかはきっと幸せになれるさ」という前向きなメッセージでもあるからです。これはもう、至上の人間賛美ですよ。そりゃあ、人間一生救われないこともあるかもしれませんが、花本先生の幸せを見たその瞬間はそんなことないと信じられるじゃないですか。先生も色々あったからな。本当に良かったよ。竹本じゃないが、やっぱ真心を持った人が幸せになる世界であってほしい。
それで、花本先生のあれは恋心だったのか?って話になるのでしょうけど、私としてはNOですね。ラストの場面では思わず青春スイッチ入っちゃっただけで、恋ではなかったって感じですかね。しかし、ずっと自分の手元に置いておきたいっていう独占欲はあったろうし、恋なんてきっかけじゃないですか。花本先生のは愛ですよ、愛。だからきっかけが恋だったかどうかはもういいじゃないですか。ここまできたら好きという感情を「恋」と呼ぶか「愛」と呼ぶか「親子愛」と呼ぶか、もう単なる呼び方の問題ですよ。それに理花と真山のカップルが許されるなら、はぐと先生のカップルだって年齢的には大して違わないし、これは考えるだけ不毛ですよ。はい。
以上、いちオタメの意見でした。