悪意との遭遇

今日はM田君とJ太郎氏と映画を見に行きました。T野もいた。
当然T野もいたということは、それは人間の話をしろという合図でもある。元来人間の話など好まない私であるが、T野のような圧倒的な悪意を放っている存在を前にしてしまうと、必然的に会話が人間の話に誘導されてしまう。理不尽な話だ。
そして今回はいかにT野が悪意に満ちた人間であるかについて説いた。つまりだ、本来気遣いや優しさによる言葉を投げかければお互いに気持ちよくなれるような場面がある。しかしT野という人間は、実際それを実現できるような会話力をもてあましながらも、いざその場面で「善意による優しい言葉」と「悪意による他人を突き放す言葉」の二択を迫られた際、T野は必ずといってもいいほど後者を選ぶ。どんなに少なく見積もっても8:2=悪意:善意の割合になる。故に、T野の言動は悪意に満ち満ちている。だから君は悪意という存在の具現である自分を認めたほうが賢明だと思う。あるいは、それは素直に相手に対する敬意や好意を示せないことへの照れ隠し、つまり「ツンデレ」であるというなら、それら悪意と想定されうる言葉も、遠回りな善意がこもっているとも解釈できるかもしれない。さぁ、悪意の権化か、ツンデレか、選んでくれ。
ついでにですが、S川の現代オタク批判発言についても話し合いました。これはあの晩幹事長の話を聞いてからずっと疑問に思っていたことなのだが、どうも幹事長が現代オタクをバカであると判断していて、その存在が許せないことは理解できた。しかしだ、一体幹事長はいつ、本人の言うところの「バカな現代オタク」と差別化されうるほどの、「知的なオタク活動」を行ったというのだろうか?それが全く理解できない。
幹事長の日記を見返しても、訳の分からない叫びや中傷ばかりで、たまにオタク論を語っても一般論の域を出ない。むしろエロゲーをやったときの感想などは卑猥極まりない。明らかに幹事長のオタク文化に対する態度は「快楽原則」的である。それはまさに幹事長の嫌うオタク像そのものにも感じられる。何故そんな自分がオタクのオピニオンリーダー足りえるという無根拠な自信を持っているのだろうか?幹事長を馬鹿にしたい訳でなく、その点が本当に不思議に思えてしまう自分がいる訳です。これは割とマジです。
だから幹事長はとりあえず「オタクとしての知的な活動」を実際に示して欲しい。でないと、幹事長の言っていることは単なる頭の悪い人間の戯言の域を出ないですよ。だって、このままじゃ今のオタク文化に単に馴染めなかった幹事長の負け惜しみに帰結するみたいじゃないですか。オタク・イズ・デッドじゃなくて、ヨゼフ・イズ・デッドですね。
ということをT野と話し合ってみましたとさ。幹事長のオタクっぽい知的活動を心より期待しております。