秒速5センチメートル

この作品を見て思ったのが「やっぱ恋愛って言うのは、するもんじゃなくて見るもんだよな」ってことですねw


言い方は極端ですが、野球をすることが好きな人もいれば、野球を見ることが好きな人もいる。どっちも同じものを対象としているけど、楽しみの「質」ってものが根本的に違う。それは当然主体的に取り組んでいるか、客観的に傍観しているのかというところから生じるものですけどね。
それで、主体的に取り組むことよりも、客観的に傍観する楽しみ方の方が優れていることは何かと言えば、「嘘ごまかしをそのまま信用できる立場にある」という事でしょう。これまた例えばなんですが、プロレスの試合ってありますよね。僕もあまり知識があるわけじゃないんでなんとも言えませんが、あれはある程度の段取りは決まっていて、その上で「このワザはかわしちゃいけない」「ロープに飛ばされたら反動で返ってくる」と、細かいルールが存在している。言ってしまえば、主体として行っている選手側は「プロレスを演じている」ことを常に意識しているはずなんですよ。だから、ここはこうすれば客席からは面白く見えるだろうと、全て計算ずくで、それら細々とした事を常に頭に浮かべながら試合をしている。
一方観客側は、そういうものだと知りつつも、観ているその瞬間だけは、本当に感動的な力と力のぶつかり合いが繰り広げられていると、感情を没入させられる。ポールに上ってる間に距離を置けよ、とか思うわけですけど、そういう「ありえない」ことも、その瞬間は本当だと信じ込んでいい立場にある。そういう「細々としたやり取りを意識せず、楽しいところだけ楽しむ」権利が与えられてるんですよ。


長い前置きがあって、ようやく5センチメートルの話に入るわけですが、一言で言えばこの作品は「一途」ですよね。13歳の時に抱いた恋心を社会人になってまで持ち続けている訳ですから。でも冷静に考えてみて、10年以上も、一人の対象を好きであり続ける、まして10年間顔も合わせていない対象、なんてありうるんでしょうかね?ここらへんは感覚の話ですが、ある対象への「好き」という感情は、それから離れてしまって、意識しなくなってしまったら、その気持ちがもつのはせいぜい一年間というのが私の感覚ですかね。もちろん、その記憶が全く無くなるなんてことは無いでしょうし、何らかの形で自分という人格を形作る一要素にはなりうると思うんですよ。でも、「好き」を意識し続けて、10年以上も一人を思い続けているというのはやっぱり非現実的ですよね?
じゃあ、この作品は不毛なのかと言えば、そういう話がしたい訳じゃない。つまり何が言いたいのかと言えば「10年以上誰かを思い続ける一途さ」は「物語にしか表現できない感情」なんですよ。ここでさっきの前置きなんですが、プロレスのロープに当たって人が跳ね返るなんてある訳ないんですよ。でも、そういう嘘があるから「プロレスにしかない面白さ」が表現できるんじゃない?ってことですね。それと同じことが今作にも言える。
そして、この作品で表現された「一途さ」は、絶対に現実の恋愛じゃ表現出来ない感情でしょう。だからこそこの一途さの嘘というリアリティに酔いしれる権利は「客観的な傍観者」である私達にしかない訳です。


某T監督はこう仰ってました。「アニメはアニメにしか出来ないことをやらなきゃもったいない。だから宇宙とかロボットとか、絶対に現実にないような大きなものをアニメで使うんだ」と。でも、今回の5センチメートルを見て、アニメにしか出来ないことがまだまだあるなぁ、と感じました。それがつまり、「感情の嘘を、あたかも生きている人間がそう思いうるかのように表現する」ってことですね。
10年一人の人を思い続けるって気持ちの経験は現実には不可能で、物語の中でしか経験できないことなんですよ。それでいてアニメには、現実の人間が嘘を演じてしまう違和感がほとんどなく、そしてキャラクターが動いて活動してることが、「生きた人間の感情」であるかのような錯覚を生む。嘘を本当のことのように、その瞬間は信じ込ませることが出来る。これこそアニメにしか出来ないことの一つなのかな、と。


もうひとつアニメにしか出来ないなぁと思ったのは「情景がものを語る」ってことですね。種子島から発射されたロケットの噴射煙が空に斜めに延びて、夕暮れの空の片半分だけに陰影を落とす。これは貴樹の感情と花苗の感情の温度差のメタファーだと思うのですが、実際は「風景が人間の感情を語る」ことなんてありえませんよね。人間が勝手に情景に感情を投影することは可能ですが。そしてその投影された感情を、言葉を介する必要なく表現できると言う点で、やはりアニメは凄いと思うし、それ以上に5センチメートルの背景美術の説得力は凄まじいと思う。
最近では映画でもCGの力で情景が登場人物の立場を語る表現も増えましたが、それは言ってしまえば「映画がアニメに近づいた」と言える。だから、背景の語る力の大本はやはりアニメの力だなぁと。


この作品は「いかにリアリティある表現をするか」と言うところを目指して作られたそうです。確かに登場人物の仕草や、町並みなどの生活感はリアリティに迫るものがあります。しかし、この作品の本当に凄いところは、リアリティを目指しながらも、アニメでしか表現できない感情、アニメでしか言い表せない説得力、こういった「アニメでしか出来ないこと」を表現している、というところではないでしょか。