ラブライブ!The School Idol Movie 所感

映画観て気付いたこと、思ったことをメモ代わりに残す。
以下はネタバレ全開だから注意な。











絵里のメールで語られた「スクールアイドルであることにこだわりたい」というセリフを軸に、劇場版の結末の意味について考えてみる。
そもそも、スクールアイドルとアイドルの違いってなんなのか。とりあえずいくつか挙げながら説明してみる。

  • 商業性がないこと

現実のアイドルと商業性が切っても切れないのは言うまでもないが、スクールアイドルは部活の延長上に位置づけられており、その活動によってアイドル自身に直接的な利害が発生することは原則ない。
あくまで私的な目標(それは廃校阻止であり、ラブライブ優勝)のために活動することを旨としている。
個人的な利害が発生しないという世界観故に、スクールアイドルのグッズは勝手にショップで売られるという、奇妙なことも発生しているが。少なくとも、そのグッズ売り上げがアイドル自身に還元される描写はない。

しかし、今回の劇場版ではラブライブの主催者側からのオファーでラブライブの普及活動を行うことを勧奨されている。また、海外ライブ以後のμ'sは絶大な人気を誇る存在として描写されるが、広告塔としてのμ'sは多分に商業性を想起させる。
その点に「スクールアイドルにこだわること」の理由の一つがあると考えられる。もし、3年生卒業後もスクールアイドルを続けたとしたら、私的な目標を失ったμ'sは何を目標に活動をするのか?やはり、今後の活動には広告塔としての役割を担わざるを得なくなることは想像に難くない。
過去にもファッションショーのステージのゲストとして参加するようなこともあり、全く初めての出来事ではない。しかし、それはあくまでラブライブ優勝という私的な目標の活動の一環であった。しかし、今後はその広告活動自体が活動の目的になるであろうことから、私的な目標でなく利益のために活動することになることを避けたかった、という理由があったと思われる。スクール(学生)アイドルであるからこそ、社会の要請に縛られることなく活動できる。いわゆるモラトリアムであるからこそ自分たちのやりたいことをやれるのだ。
作中の台詞でもあったが、スクールアイドルの活動は「こんなにも夢中になれ」るもので「最高に楽しい」ものでなければならない。私的な目標を喪失した時点で、それは彼女ら自身が最高だと思って取り組んできたものとは、また違ったものである。

  • 活動の終わりが明確であること

実際のアイドル活動で「この期間までしか活動しない」ということを明示されていることは極めて稀であり、ほとんどの場合は売れなくなって自然消滅するか、活動休止・引退宣言をするかをしない限りは、特に活動期間の定めはない。
しかし、スクールアイドルには高校卒業までという明確な活動期間が存在する。おそらくこれがスクールアイドルの最大の特徴であり、テレビシリーズ2期のメインテーマでもある。
話は少し飛ぶが、ラブライブには絶対に触れてはいけないタブーがある。それはμ'sの「高校卒業後の将来」を描写することだ。自分の知る限りでは、アニメでもCDでも小説でも漫画でもこのことは絶対順守されていると思う。3年生組の卒業後の進路も一切描写されない。せいぜい真姫ちゃんは将来病院を継がなければならない立場であることくらいだろう。それも、別に決まった未来というわけではない。
では、何故ラブライブでは将来を描いてはいけないのか。それは、ラブライブが「今、この瞬間」を描く物語だからだ。劇中歌「Angelic Angel」に「明日じゃない 大事な時は 今なんだと気がついて」という歌詞があるが、まさにこれこそがラブライブを指し示した言葉といえる。
もちろんμ'sメンバーにも将来というものはある。しかし、少なくとも「ラブライブ」という物語はあくまで「今」を生きたμ'sの物語であり、わずか1年を駆け抜けた彼女たちの青春の記録が物語のすべてである。
限られた時間の中での活動であったことをμ'sも非常に尊重していることは、絵里からのメール後の屋上の会話から明確であり、作中の人物からも「今」を大切にしていることが伝わってくる。終わりがあるからこそ、「今」を懸命に駆け抜けたことがより映える。青春とはある一瞬の輝き、それ自体のなのである。


これは余談ではあるが、現在ネット上での主流となりつつある「女性シンガー=未来の穂乃果説」は少々早計だと思う。上にも記したとおり、ラブライブの最大のタブーが「高校卒業後の将来」を描写することだからだ。
あくまでそういう穂乃果の未来(流しのシンガー)もあるかもしれないけど、それはたくさんある可能性の内のひとつに過ぎないという扱いなら構わないのだが、これを確定の未来と捉えると、自ずとμ'sの離別も確定してしまう。おそらくそういう風に捉えられてしまうのは制作サイドとしても不本意なのではなかろうか。μ'sのその後を想像するのも楽しくはあるが、やはりその想像は何かの情報に制約されず、自由でなければならない。
ちなみに自分はあの女性シンガーは、
アメリカで出会った時・・・穂乃果の境遇によく似た実在の人
日本で出会った時・・・苦悩する穂乃果が生んだ自身の心の内の代弁者。心象風景
と思っている。

  • 「跳べる」とは何か

冒頭と、帰国後の女性シンガーとの再会時にある言葉で、劇場版の一つの軸として語られる言葉だが、いまいちしっくりこない言葉だった。
色々と考えてみたが、おそらくμ'sとして繋がった今の9人なら、1人になったとしても、今ならちゃんと1人で飛び立てるというニュアンスだろう。劇中ED曲「僕たちはひとつの光」の歌詞「小鳥の翼がついに大きくなって 旅立ちの日だよ」と、「僕らはいまの中で」の「それぞれが好きなことで頑張れるなら 新しい(場所が)ゴールだね」から、そんな感じだろうと。
なんでこんな持って回ったような言い方なんだろうと思ったが、またさっきの話であるが、将来について直接描写するのはタブーなのである。具体的に一人になっても飛び立てると言ってしまうと、それこそ離別を意味すると解釈されかねないので、そんな言いまわしになったのではないだろうか。
ラブライブという物語のテーマに「繋がる」というのがある。ここらへんは「私の望み」がわかりやすいし、劇場版では全国のスクールアイドルと繋がったのだと言える。
そして、劇場版では繋がった後に何が起きるのか?にまで踏み込んだ、ラブライブのタブーに触れかねないテーマに触れている。これが最後だからこそ、描けるテーマ。それが「跳べる」なのであろう。これを離別と捉えるか、またあいまみえるための飛翔と捉えるかは各々の想像に依るところである。


総括であるが、ラブライブとは「最高に楽しいことを」「今、その瞬間に」「みんなで」やる物語なんだと思う。そしてその「みんな」が穂乃果からμ's9人となり、音ノ木坂の生徒たち、ラブライブの大会を通じてμ'sを知った人たちへと広がり、劇場版では全国のスクールアイドルに届き、後世まで影響を残し続けることとなった。それ故にこの作品は真の意味で「みんなで叶える物語」となった。
そして、その先のステージへμ'sが旅立っていくことを予感させつつ、物語の幕は閉じるのだ。




あと、思ったことをつらつらと。
あのラストは自分が思い描いた通り、完璧な終わり方だった。放送当時のテレビシリーズから付き合ってきた身としては、μ'sが伝説になるのを見たかったんだよ。
もうちょい具体的にいえば、人気絶頂のうちに活動を終了したμ'sが、語り継がれる程の存在になるのを見たかった。
そういう意味で、作中ではスクールアイドルの立役者として、生涯語り継がれることになったのは間違いない。まさに伝説になったのだ。
これを言ったらボコボコにされそうだが、実際の声優の方のμ'sも、たとえば次回の6thライブで人気絶頂のうちに活動終了したら、伝説になると思うんだよね。もちろん下火になるその日まで活動を続ける姿を見守るのがファンなんだろうが、アニメ史に残る伝説に立ち会ってみたいと思う気持ちもあるから、複雑ではある。


こんなことを言ってはいるが、劇場版をもって続編の余地もなく、完全な完結を迎えたことへの喪失感は半端ない。
エンドロールが流れた時は「まだ終わらないでくれ…」と願ったし、きっとエンドロール後にまだ何かあると心から願うも、そのまま上映は終了し、劇場が明るくなったときの気持ちは筆舌にしがたい。悲しい。ただひたすら悲しい。生きる気力もない。


劇中歌「SUNNY DAY SONG」のライブシーンの情報密度高すぎ。2回見ただけじゃ全く全容を把握しきれない。そして曲は神曲。これ聴くだけで泣きそうやん。
ED曲「僕たちはひとつの光」もマジで神。歌詞要約すると、穂乃果に導かれてみんなが繋がって、やがて1人で飛び立つって感じか。
要するに、Angelic Angel含めて、早いところCD発売してくれってことです、ハイ。