ひぐらしのなく頃に 体験版「鬼隠し編」

先日の公約どおりやってみました。体験版なんで3時間もあれば終わるかと思えば、6時間半くらいかかった…。長い。
アニメと比べて明らかに違ったのが「部活」のシーンがかなり具体的に、それも多く描かれていたこと。これはアニメ化の際、大きな筋には関わらないので削除されっちゃったんですね。でも、「部活」の場面はすごく重要。正直、アニメを見たときは圭一は別段レナ達にそこまでの仲間意識も無いと思っていました。アニメでは日常をちょろっと描いた後、大して登場人物に愛着のわく間もなく、すぐ殺人事件。確かに「推理モノ」という観点から見ればそれで必要項はとりあえずのところ満たしていたのかもしれませんが、そのせいでこの作品の意図するところを完全に見落としていました。
その見落としと言うのが、主人公の圭一にとってレナ達との関係が「今まで経験の無かった、あるいはそんな体験が過去存在していたことさえ忘れてしまっていたような『仲良しグループ』だった」こと。曰く、圭一は転校の前は進学校にいて、友人と言えば互いの成績を比べあうだけの対象、対人的意味をほとんどなさなかったそうだ。そんな中、初めて出来た遠慮のいらない友人。彼が、一ヶ月ほど前に出会ったレナ達との間に芽生えた新たな人間関係に期待したもの。それを描くのにはどうしても「部活」の場面が必要不可欠だった。アニメ視聴時これが描かれなかったため、主題を見誤っていた。
ここからは憶測ですが、「部活」という単位で括られた人間関係を通し、『グループと言う単位で構成される人間の集まりに所属する、そのことの意味する真理』を暴こうとする意図がこの作品にはあると感じた。登下校をともにしたり、部活に精を出したりと圭一たちの連帯意識の強さは、普通ある友人関係以上のものがあります。例えば小学校のクラス内にいくつも点在する仲良しグループのような連帯意識。
けど、そのグループをちょっと引いた目線で見てみよう。

  • 圭一が「部活」に参加しなくなり、人間関係が疎遠となる過程と、レナと魅音の執拗ないやがらせが同時進行となる。これはレナ・魅音側から見た場合、グループの人間関係を切り捨てようとする友人に行って欲しくないという人並みの悩みと、グループの人間を売るような真似をしようとする裏切り者への力による制裁という両側面を示しているのでは?あるいは一般で言うところの「仲良しグループから逸脱することでいじめに遭う」現象のメタファーとしての執拗な制裁=祟殺し
  • 圭一が受けたレナや魅音からの暴力的制裁(縫い針混入など)による支配は、現実社会で存在するグループ内での権力者による階層支配(例えばガキ大将が中心となってできた友人関係とか)の例えでは?実際「部活」の中で最も年長で、権力のあると思われる魅音の作った「会則」によって、部はある種戒律による安定を保っているともいえる。現実にしろ、「部活」にしろ「その集団の人間である以上、仲間から抜けるのは許さない」という暗黙のメッセージによって成り立っている。このことは人格の変わった(ように見える)時のレナや魅音が絶えず発する「私達を裏切るな」という無言の圧力をかける状況とも類似する。
  • 自分の思い通りに行かない友人の行動を、なんとかして抑制、支配しようとする対人関係の論理の象徴として、「嘘だッ!!」の場面に表れるような「本音の探りあい」があるのでは?つまり親しい間柄だからこそ、相手の本音を知りたくなって、しかし本音が分からないことで疑心暗鬼になってしまう苛立ちの例えとしてのレナ、魅音の奇行があると解釈出来そう。そのくせ自分の本音はけして明かさない。本音を聞きだすことで相手を支配し、かつ自分はどう本音を隠して心を守るか、そんな計略的支配願望に満ちた人間関係への揶揄(やゆ)も含まれている。

つまり、一見仲の良さそうな結束力のあるグループというものに潜む共犯意識と、友人に対する些細な疑心と、権力支配と、そんなことを暴こうとしたのがひぐらしだろうと私は考えました。
そうすると雛見沢の住人は裏切りの許されない共犯意識の集団の例え?鬼隠しは逸脱者への集団制裁のメタファー?オヤシロ様は「グループ」の最高権力の象徴?これらのカードが意味するところをひとつひとつ拾い集めたとき、「ひとつの大きなメッセージ」が必然として描かれると言うのが私の意見。雛見沢の事件→グループ単位の人間関係の例え→メッセージ。この構図を逆に辿れば、つまりこの作品の意図するところのメッセージを読み取って、メッセージのつじつまを合わせるのに最適な状況・配役を選べば、おのずと「誰が犯人なのか」答えが確定できるのではないでしょうか?これが現時点での私的考察です。
と言っても、鬼隠し編だけでは情報不足で、これ以上は難しいです。今後、他の作品をプレイする機会があったら再考してみるとします。