ゼーガペイン 第8話「水の向こう側」 ★×7

前回の「この世に自分以外の人間なんて存在していないんじゃないのか」という問いに対する解答編。
これも実に青臭い話なんですけどね、他人が「人間に思えない」のは、他人を自分の感情を満たすためだけの道具、自分の感情の捌け口としてしか相手を捉えていないからなんですよ。


例えばですね、自分のやりたいこと、遊びでも行事でも何でもいいんですが、があって、そのために友人を誘ったり協力を頼んだりしたとき、もし断られたり拒否されたりしたらイラッとしません?そのイラッとした時、無理矢理我を通したり、どうにかしてでも相手の行動をコントロールしようとすることってしばしばありますよね。でもそのときの気持ちを冷静に見つめなおしてみる。するとそれって相手の境遇を自分の好きなようにコントロールできるのを、当たり前だと思い込んだりしてる自分がいたりするんですよ。
つまり相手を道具のように好きに使ってもいいと思い込んでいる状態。作中で言えば、自分の水泳部が認められ、入部してくれる人間が現れるを当然だと思っていたソゴル。つまり、相手の感情無しに自分の目的に対し「他人の感情が従う」のが当然、こういう風に思っている内は実を言うと「他人を道具としてでしか捉えられない、自分の目的を果たすためだけの、自分しかいない世界の閉じこもっている」訳です。この狭すぎる世界に囚われている内はその人にとっての他人は存在していない世界に生きている。つまり今までのソゴルはそうだったんですよ。
でもいつかは他人が存在していることを思い知らなくちゃいけない。まぁ、それが今回の解答編な訳ですが、作中で示された答えはつまり「傷つけあうこと」なんですよ。うぉっ、なんと青臭い。
相手を思うがままにコントロールしたい、この願望は一生消えるものでもないし、常に対面する問題。でも、そういう場面に出会って、なんとか我を通そうとするときに摩擦が起きる訳ですよ。「なんであいつはあんな断り方するんだ」「何であいつは嫌がるんだ」「俺のこと嫌いなんじゃないのか」てね。でも、この自分が傷つくって場面に対峙したとき、初めて新たな問題に出くわすんですよ。それが、どうやって他人との納得いく妥協点を見つけようかという問題。
そりゃ、相手から拒絶されたら傷つきますが、もし相手が拒絶を示さなければ、その人にとってはいつまで経っても「道具のように利用する関係」しか芽生えない訳ですよ。拒絶と言う機会を経て、初めて他人の気持ちについて考える契機となる。ですから、実を言うと、この世に傷つかない人間関係なんて存在しないし、もし傷つかないならそれは人間関係未満の、お互いを「他人」として認知できていない関係に過ぎない訳です。
そして、自分が傷ついた事実と、相手が拒絶した事実を統合し、想像を巡らせた時、初めて人間の思考は「相手も傷ついているんだ」という実感に辿り着くんですよ。結局相手の痛みは想像しか出来ないけど、自分が傷ついた事実を他人の像に投影したとき初めて「実感」と呼べるものが浮かび上がる。あぁ、自分が傷つけられたのと同時に、相手も傷ついたんだな、って。だからソゴルの言葉を借りれば「傷つける痛みってのもある。ごめん。以上」な訳ですよ。
でも、「それ」が頭で理解できても、やっぱり傷つくのは辛いし、逃げ出したくなる。傷つけあうことこそが人間関係と分かった時から本当の意味で人間関係が始まるのと同時に、これから先傷つくことから逃げ出さない自分にならなくちゃいけないと覚悟するのですよ。だから「本当の痛みを知るのは、あがかなくちゃならないのは、これから」な訳です。うん、実に濃厚で中身の充実した話だったと思う。


結果として、今期のアニメの中でも考察対象としては頭一つ出た面白みがある作品にまで成長しました。興味深い。