映画:時をかける少女

を見てきました。何故かと言えば、昨日見たゼーガペインの影響で、とにかくなんでもいいから王道学園青春モノを見たくて見たくてしょうがなかった訳ですよ。そう思ってしまったら何が何でも見てしまいたい性分でして。終わらないレポートをカリカリと書き続けていた深夜にふと、そういえばそんな映画やってたなと。思いたったからには即実行が信条なもので。
もちろん一日ずれてたらハチミツとクローバーの実写を見に行っても良かったんだけど、まぁ、あれはネタ要素が強いじゃないですか。さらに一週間待ってゲドっていうのもあったんでしょうけど、オタクらしいオタク目指してる私がジブリを語るようになったらもう節目かな、と思いつつ今日のハウルも当然の如くスルーな訳です。
そしてここからは映画の感想。多分見ていない人には何を言っているのか分からない。


このアニメが何を言いたかったのか、その場面場面をみた瞬間では上手く理解できない。ただ一途に、ひたすらに真琴が何かのために、走り続けている。その作品の渦中にいるときはただ駆け抜けていく姿に圧倒される。その瞬間を過ごしている時には、理由なんてものはあまり意味を持たない。思うに、これは鑑賞者にとっても作中の人物にも同じなんですよ。走っている、その時間の中にいる私に理由はない。
そしてEDのスタッフロールと共に劇中場面の回想が流れたときになって、初めて意味が理解できた。走り抜いた結果、ものごといい方向に進んだか、みんな幸せになれたか、ハッピーエンドになったか、それはあくまで主題を飾るための名目に過ぎないなと私は感じた。つまり言いたいことはただ一つ、「その瞬間、それが最良だと思えたなら、ただそのためだけにひたすら努力しろ」ってことなんだと思います。真琴の行動全ては最良だと思える可能性を信じて、ただそれだけのために駆け抜けた。
あるいは、駆け抜けた結果として、夢や可能性はくっついてくるという話でもある。例えば、冷静にタイムリープについて考えてみるとラストの場面、千昭のしたタイムリープの結果、功介らの事故の記憶を引き継いだままに真琴も過去へと戻っている。それはちょっと考えてみておかしい。何故なら千昭のタイムリープなら、真琴は千昭の過去にいる事故を知らない真琴になっているはずなのに、なぜか千昭といっしょに「事故を目撃した真琴」もタイムリープしてしまっている。そこで矛盾する。もうちょっと考えれば、功介らが事故にあった時間軸の真琴が確かに「存在している」ことを本来覆すことは出来ないはず。タイムリープはやはり「ある時間軸には不幸になった私達もいる」ことが前提の世界が存在しているはずなのです。そう考えるとこの物語は一気に残酷な色合いを強くする。
でも、劇中ではそんな不幸は一切無視されて、千昭のタイムスリープの矛盾も徹底的に無視される。かなり曲解ですが、つまりそのこと自体がメッセージではないのでしょうか?不幸になった自分の可能性は省みない。ただ前だけ見て駆け抜けた、それを正しいと選択し続けた自分だけが唯一無二の生き様で、その前では細かい矛盾も世界のルールも、自分に合わせて変わる。「それが『青春』だ。」ってね。
自分や周りの人達の幸せのために、全ての可能性を味方につけて、駆け抜けて。その走り終わった後に夢が現れ、可能性として出現する。だから、ひたすらに駆け抜けるしかない。そうそう、こんな感じのひたすらに青臭い王道学園青春モノが私が見たかったんですよ。ひたすらの心地よさと感慨深さの残る、なかなかの良作でした。