今一度、時をかける少女を見てきました。

だって、K谷さんが行くって言うならついていくしかないじゃないですか。僕はゲドでもよかったんですけど、ぽじが必死に抵抗するので止めました。まぁ、映画ってある時間経つと「あの場面どんなんだったっけ?」という風に思ってしまうのでいい機会でしたし。
正直、映画観終わった後に二人に饒舌に感想について語ってもよかったのですが、多分サンドバック状態になるので、約束どおり日記に書きます。以下、二度目の感想やら気づいた点について。


私的には時かけには二度泣き所があると思うのですよ。一つ目は挿入歌が流れて、最後のタイムリープ、千昭と春に出会ってからの回想シーン。当たり前に見える関係が色んな時間の積み重ねの所産であることの象徴と言いましょうか、そこでも過去の変え難さという点で「時」を象徴するモチーフなんですよ。特に三人で千昭が自転車で乗れるように練習するシーンと、「あいつ、初めて名前で呼んだな。」(だったかな)の台詞が気に入っています。
二つ目はエンドロール。この作品はですね、ひたすら真琴が走り続けるシーンや真琴が泣く場面で間をあえて伸ばしているそうなんですよ。それはそこで観客が考えるための時間を与えるためだそうです。(詳しくはこちらで)話そのものは感情的で、さっぱりと割り切れているから、案外観てるその瞬間にはあの場面は何の意味があったのかなぁ、と気づかなかったりするんですよ。そのための最大限の考える時間がエンドロールに集中してると私は考えていまして、回想的に映画のシーンがエンドロールに映される中で真琴は色々やったなぁと思いながら、あぁそういうことか!と気づく。ああいう作品って、登場人物がどうしてそのように考え、そのように行動したかが理解できたときに感動がこみ上げてくるものだと私は思うんですよ。そのために最大限の想像力をめぐらす訳です。
そして、最初に観に行ったときに気づかず、二度目で気づいた点。ちなみに前回の感想はコレ。そしてこちらのコラムを大変参考にさせてもらいました。
今回気づいたのは、タイムリープをモラトリアムの順延と読み取るなら、タイムリープの回数が残りわずかになった状況(=モラトリアムとしての生活の残り時間)に直面したとき、その残りわずかな時間を誰のために使いますか?と、そんな問いかけと解答が「最後一回のタイムリープ」の意味するところなんですよ。
例えば千昭は残り一回を真琴のために使いましたよね。それは、単純に真琴に不幸にはなって欲しくないと願ったから使った訳ですよね。その結果、学校生活から退場させられたように、モラトリアムの最後を好きな人のために使い果たしたという構図です。これは恋物語の様相を呈していますが、実は恋になぞらえて「自分のためじゃなくて、誰かの幸せのために残りの自由な時間を捧げても構わない」ことを示唆していると私は考えています。あるいは社会奉仕のために捧げると言い換えてもいいですし、身近な誰かのために捧げると言い換えても構いません。とにかく、「大切だなぁ」と思えるもののために、自分の残り時間を捧げても決して惜しくはない、そう思える瞬間に出逢うことが最後のタイムリープ=大人になることの意味になっている訳です。
だから、一度は真琴はタイムリープしていることを誤魔化すため、つまり自分のために最後の一回を使ってしまう訳です。けどもし、もう一度だけチャンスがあったら、何のために使いますか?と、その問いかけの解答が、千昭に告げた「走っていく」の言葉であり、最後キャッチボールをしながらの「やりたいことがある」の言葉なのだと思います。それは同時に、楽しいことばかりの学園生活はいつか終わって、その先一体何のために大人になろうか?、その終わらないモラトリアムへの一つの解答な訳ですよ。


と、こんな風に今回は思いました。でも、流石にあの場でコーヒーすすりながら二人にこんな話をしたら「なんだこいつ?」と思われそうだったので、K谷さんに映画の感想を託した訳です。分かってもらえたでしょうか?