ゼーガペイン 第25話「舞浜の空は青いか」 ★×7

放送も残すところあと一話となった故、ここまでの放送の最後の総括と言いましょうか、現時点での私的解釈の全体を示したいと思います。
私が以前示した「何故大人にならなければならないのか」の問いについて、今までもそれとなくビジョンは示されていたのですが、今回の放送にてそれが決定的に示されたと感じたので記してみます。
舞浜でのゼーガペインとアンチゼーガとの戦いでは、悪によって街が破壊されてゆく中、正義の味方である巨大ロボットが現れて、僕らの街を守ってくれる、そんな構図が描き出される。今までの、人の住まない廃れた街の風景で戦っていたのと違い、この場面には従来的なヒーローとしての巨大ロボット、それは例えばエルドランシリーズのような、子どもの憧れを一身に受ける存在である。特にカミナギの弟を敵の攻撃から助ける場面はそれを象徴しているのではないだろうか。アンチゼーガ以外にもザコ敵を出して悪の組織の大襲来の構図を作り出しているのも、そういう意図だと考えられる。
実のところ、そこに子どもが大人にならなければならない、あるいは大人になろうと思う理由があるのでしょう。まず、子どもが大人になろう、そう思うのはヒーローへの憧れと羨望ゆえだと思います。シズノ達が学校の生徒を守る中、キョウの友人はそのまま守られているだけの存在である自分を拒絶し、アンチゼーガに石を投げて反抗する過程で、セレブラントとして覚醒していく。そこにあるのは、自分と同じ歳であった友人が戦っている、それに少しでも近づきたいし、このまま何も出来ない無力なままじゃいけない、そう思う故だと思います。
以前セレブラントは、社会の矛盾を見つけた人だという話をしましたが、つまり、当たり前に享受している生活を維持しているシステム(この場合は戦うヒーローに象徴される)への気づきと、このままではいけない、自分もそうなりたいと願うということでしょう。そうすれば彼の覚醒も説明がつきます。最もそれが顕著だった人間は「ソゴルキョウになりかった」と、彼のヒーロー気質に強い羨望を抱いていたルーシェンでしょう。青年は身近な存在の背中を見て大人になろうと思うのです。
また、子ども達はヒーローのその姿にあこがれて大人になろうと志すのでしょう。キョウは昔テレビのヒーローに憧れていて、ゼーガペインに乗れたときは嬉しかったというエピソードがありました。結局のところ、キョウはその憧れを今実現した訳です。これはもう少し拡大解釈すれば、ゼーガペイン以前のような、正義の味方であるロボットの活躍するアニメの姿を見て憧れたりした、かつて子どもだった人への、つまり今二十代程度の人々への、それから君らはどうなった?という問いかけとも取れます。現代のポスト・ロボットアニメと言いましょうか。


そして、何故大人にならなければいけないのかの解答としては、実はこれはだいぶ前から示されていたことなんですよね。これは言葉にしてしまえば実に陳腐で青臭いのですが、つまり皆を守るため。その答えを胸を張って主張できるようになるまでが、いわば今日までのゼーガペインだったのでしょう。
確かに、今回のゼーガペインは非常にヒロイックな存在でしたが、そんなヒロイックな振る舞いを出来るようになるまでどれだけ葛藤があったでしょう。これは従来のロボットアニメにも内在した問題で、無条件に人類に味方し、正義を愛する存在は、もともとそのような振る舞いを出来るほどの高尚な人間だったのだろうか?むしろ、そのような存在になれるまでには幾多の内面的問題を抱えてきたのではないだろうか?その、描かれざる巨大ロボに乗って戦うヒーローの内面の吐露がゼーガペイン本作ともとることが出来ます。
つまり、当たり前じゃないんですよね。人を守るって言うのは。主観では、カミナギのデータ損傷から、誰かを守ることへの葛藤が始まり、第18話においてカミナギを守ることから、不特定多数の皆を守るということへ展開し、現在の人類的振る舞いに至ると考えてます。その過程には人を失ったり、無力を知ったり、自分ひとりで何でも出来る全能感を否定した上での他人の存在の認識があったわけです。詳しくは以前の感想にて。
もし、その他人の認識が上手くいかず、極端な解釈に至ると、自分個人しかこの世にはいないのだから、自分個人の目標達成のためならなにをやってもいいし、その自己実現のためなら他人を道具として扱っても構わないという、自己中心主義が成立する訳で。つまり、それがナーガの思想ですね。極端な未来志向故のエゴイスト。だから唯一自己保存が世界の永続性を保障するから、不死を望む。ナーガは痛覚がないから、他人が痛いという気持ちになることを理解できず、結果的に他人が認識できない。
その反論として用意されるのが、シマのオリジナルの唱える「今を生きろ」ということ。これも詳しくは以前の感想にて。人は刹那的高揚の積み重ね、その場その時の問題だけを解いていきながらいつのまにか大人になれるというのでしょか?その点はよく分からないですね。


ただ、この作品がちゃんとした大人になることを絶対的に肯定しているかというと、そうでもない気もしています。今回の最後で、以前述べたような自己実現した大人になった証として、キョウは「人間」になるのですが、それは同時に皆を守るためという必要に迫られたと同時に、大人になることをひとつの自己犠牲として捉えた上での悲劇を描こうとする意図を感じなくもありません。それは、青春というもの、それ自体を人生の全てと捉え、その後にやって来る守るための大人としての人生を一種の死となぞらえて、キョウの過ごすであろう空白の数十年=大人の自己犠牲的な死と捉える、大人になることへの絶望感も感じられないこともないあたり、自己実現に恐怖を抱き、手放しに肯定しきれない、ペシミスティックがあると私は感じました。