ARIA The NATURAL 第26話「その 白いやさしい街から…」 ★×6

この話は、原作で読んだときも実のところよく理解できなかったのですよ。つまり、自分が自分にとって楽しいと思えることをやっていることで、自然と周りの人間も幸せにする。そんな大人になれたらいいな。とそういう話なのでしょうか?それとも色んな人が一つの輪になって集まってくるような、その架け橋になれたらいいな、とそういう話なのでしょうか?
本命は前者ですけど、原作にはアリシアさんの、「私が楽しくて雪玉を転がしてたら〜」のニュアンスの台詞が無かったから、アリシアさんにとって雪玉転がし=自分のしたいことかどうかは分からず、拡大解釈な気もしなくも無いような。
まぁ、その点は置いておきましょう。ただ、この事は言わなくてはならない。当然ですが、こんなことは現実には「ありえない」。しかし、それが悪いといってる訳ではありません。だいぶ前に感想に書きましたが、ARIAという作品は願いなのです。こういう世界で、こういう人々がいて、こういう風に生きていけたらいいな、という。
だから少しひねくれた解釈を加えれば、最終回においてネオ・ヴェネツィアユートピアであり、その住人達は夢の世界の住人であることを再定義しなおした、とも取れます。ARIAはこういう世界を願っていますよ、たとえ現実離れしていたとしても、という最後の主張ですね。
そこに私的解釈を加えれば、これも以前から述べていることなのですが、ARIAという作品はノスタルジーによってなりたっている世界なんですよ。レデントーレで示された職業的憧れ然り、理想的な先輩像然り、ゴンドラに象徴されるある物への思い入れと執着心然り…。
私の思うところのARIAという作品の役割というのは、あの頃の「気持ち」を再現することにあると思うのです。リアリティではないです。そのときの「気持ち」そのものを抽出しようという試みなのです。「子どものとき、どうしても捨てられないものってありませんでしたか?中学入学のときこんな先輩がいたらいいなと想像しませんでしたか?小さいときは、大人になったら何にでもなれる自分を思い描きませんでしたか?みなさんも昔こんな気持ちになったことありますよね。」つまり、その感情の部分だけを取り出して、お話に仕立てたのがこの作品なんですよ。
そして今回の話は「皆が幸せになれる世界を夢想したことはありませんか?」だと思います。大人になれば悪意だとか価値観の違いだとかで、皆がみんな幸せになる世界なんて無理だと簡単にあきらめてしまうものですが、なんにも知らない子どものときだったらそんな世界だってありうると思ったことはきっとあるでしょう、とそんな感じではないでしょうか?
だから、ARIAは大人のための童話と言っていいでしょう。気持ちを形にすることは出来ず、その手の中にずっと留めておくことは出来ないと言うけれど、もしかしたらあの時感じた気持ちを形ある結晶にできるかもしれない。その可能性に挑戦した大人の企てこそが、という訳です。

まぁ、最後くらい恥ずかしいセリフ言って締め括らせてくれよw