あさっての方向。 第11話「そこにある現在(いま)」 ★×7

人間というのは、動かなければ動かないほど硬くなっていって、最後には石になってしまうと、そういう風に出来ているそうです。
子どもというのはよく動きます。じっとしていられません。考えても搾り出せる知恵はささやかなもので、考え無しに行動します。だから基本的に快・不快の発想はあれど、理屈っぽく考えて立ち止まりません。
大人は動きません。与えられた日々をこなすのに手一杯で、自分の意思で自由に動く機会がほとんどありません。動かないので硬いです。何かあっても、とりあえず立ち止まって、理屈っぽく悩んでみます。理屈で飲み込めることは、それでいいと納得しようとするものです。


多分今回はこんな話かな?作中で子ども側に属する人間はまっすぐだと称されるように、事態を好転させるため必死に動き回る。故に網野はからだのところまで辿り着く。逆に尋は行動するまでがあまりに長すぎる訳で。大人になれば何でも出来ると子供は思うけど、大人になるとかえって出来なくなってしまうことが沢山あるんじゃなの?とまぁ、こんなところでしょう。
この作品の流れは子ども→大人でなく、大人→子どもの方向による成長物語だと思うんですよね。大人が子ども的なものを取り戻すことで、ようやく出来るようになるものがあるんじゃなのかと、そんな成長物語。