僕等がいた 第26話 ★×6

いやはや、今思えば毎週が最終回のようなアニメでした。毎回どこかしらに刹那的な高揚を感じさせる場面が配置されていたし、高橋と矢野が付き合うのを決めたところ、別れたところ、仲直りするところ、竹内が告白するところ、等など、どこかでこのまま話が終わったとしても、それなりに自然だと感じさせるのだから、毎回が最終回になる訳です。一話一話が完結してると言えばいいのでしょうか。一話一話が短編の恋愛オムニバスとして成り立ってますよね。その一話一話は、出会いがテーマだったり、別れがテーマだったり、過去がテーマだったり、他の好きな人がテーマだったり。
それだから、今回の「え、これで終わり?」な終わり方がむしろ新鮮とも言えますね。確かに終わっているんだけれども、一年後の約束に、その先が絶対に存在していることも明示されている。だからすごく尻切れとんぼな感じがしてしまう。不足感がある。まぁ、漫画は続いてるんでしょ?と言えばそれまでですが、ここはアニメを完結した作品として考えましょう。
思えば、この作品はひたすら続く恋人の日常をそれなりに主観的な、恋する視点で描き続けた訳ですよね。日常は続いてるんだけど、主観的な出来事では区切りがついていたり、断裂していたり。日々が連続してるのは当たり前だけど、実は主観的には連続してない。それは明日の朝になったら切れてるかもしれないし、恋人と別れたときから切れてるかもしれないし。でも、事象としては続いてる訳だから、急に色んなことを捨てられる訳でもないし、区切りはつけられないよな、日常って言うのは。という感じにこの作品を解釈しているのですが、どうでしょう。
それは死別したナナさんのことでもある訳ですし、高橋と別れたことでもある訳です。終わったと頭では区切られていても、そこで幕が下りるのかと言えば、実際そうでない。出来事を境に、それらを過去形にしきれない、そういう日常が続いてる苦悩が、この作品のタイトルのゆえんかな、と考えてみたり。毎回が最終回なんだけど、幕は下りない。
本当の最終回は幕は下りたけど、逆に幕が下りた気持ちになれない。高橋も「私達はいた」と過去形で出来事を語るが、むしろそれが逆説的に日常が連続していたことを肯定していて、ついでにこの先も明示している。う〜ん、人生って物語のようにドラマチックな幕下ろしだけじゃ終わらないってことですかね?


ところで山本さんの憐れさが尋常でない。当て馬にすらならないどころか、物語そのものの流れから排除すらされている。それでいて、ストーカーの如く東京行きを誓う。この憐れさは稀に見る憐れさ。