true tears ★×8

放送を終え、特に自分が気に入っていた石動乃絵を主体として、自分がこの物語について思ったことを書き連ねてみます。

  • 初恋の物語

いうまでもなく、true tearsを支える根本的な要素として、恋愛要素があります。石動乃絵も同様、眞一郎に初恋を捧げ、そして散りました。
失恋は痛いです。逆に、痛くない人間関係は心地よいです。しかし、全く痛みのない関係は、居心地が良すぎて、その人をその場に停滞させます。そうすると、ますます動けなくなってしまいます。
以前にも述べたように、乃絵は「他人」とのコミュニケーションを拒んできたと思っています。まず、乃絵には友達と呼べるような存在がいない。そして、基本的には兄と眞一郎としかコミュニケーションをとらない。眞一郎と兄は、乃絵にとっては内側の存在、『身内』と同じです。自分に尽くしてくれようとしてくれる人、自分と同じものを共有している人です。


しかし、眞一郎との初恋のうちに、自分の思い描いた通りにならない「他人」の気持ちに触れることになります。それに併せて、今まで気付くことのできなかった兄の、乃絵を異性として好きだという気持ちを知らされてしまいます。その瞬間から兄は、自分のことを優しく受け入れてくれる家族から、理解の範疇を超えた「他人」になってしまいます。
そこで、乃絵の飛び降り事件が起きます。飛び降りた理由は幾つかあると思いますが、その一つに「自分を無条件で受け入れてくれる『身内』がいなくなってしまった」事実から逃げ出しくなったことがあると、自分は考えています。


EDに、友達と登校する乃絵の姿を映し出したのも、『身内』だけの心地よい世界でなく、理解できずに傷ついたり傷つけたりもしながらも、「他人」のいる世界で生きていこうという、乃絵のこれからのあり方を示しているのだと思います。
消えかかった「のえがすきだ」の言葉を見下ろし、眞一郎との時間を思い出して、初恋の痛みに耐えられなくなり、今まで流すことのなかった涙を流した。そんな乃絵の気持ちを思うと、本当に切なくなります。
相手を想うからこそ、その人のことを考えると涙が出ると結ばれていましたが、それは裏を返せば、自分にとってどうでもいい人間のためには泣かないということです。自分にとって大切な人が『身内』だけであり、その『身内』が自分を傷つけない程に優しく理解のある存在なら、その人は泣くことすらないでしょう。自分なりに、乃絵が泣けなくなった理由を考えてみたのですが、それは、乃絵を傷つけてくれる、特別な「他人」が、乃絵にはいなかったからではないでしょうか。「他人」は何も恋人だけでなく、友達でもいいし、尊敬する人でもいい。そういう人との出会いが、乃絵の涙を流すきっかけになると思うんです。それが乃絵が友達と過ごす姿のうちに想像されます。
失恋の痛手と引き換えに、「他人」がいて、自分の心を傷つけてくれる世界を、乃絵は手に入れたのだと、自分は思います。

  • 自己肯定の物語

乃絵は、自分が飛べない人間であることをずっと気にしてきました。「飛ぶ」とはどういうことなのか、自分はそれを「自分を肯定できる何かをすること」だと捉えています。
乃絵は、「他人」が不在の世界で、自己肯定に飢えていたのだと思います。
乃絵は『身内』に、乃絵が乃絵であること自体、つまり存在自体を肯定されてきました。しかし彼女の欲しかった肯定感はもっと、他の誰にでも誇れるようなこと、自身が成し遂げた結果得られるようなもの、もとから持っているものでなく自分で選び取ったもの。そんな感じのものを求めていたのだと思います。
自己肯定できるような何かがなかったから、乃絵はずっと不安だった。だから、何をすべきか分からなくなって動けなくなってしまっていた比呂美を小突いたりして、自分が飛べない側の人間であることを誤魔化してきた。
しかし乃絵は、持ち前のストレートな感情表現によって、眞一郎を肯定します。眞一郎自身が肯定できずにいた自分のこと、親の意向に逆らってこっそりと描き続けていた絵本のことと、やりたくてやっているわけでない麦端祭りの踊り。それらをひっくるめて、乃絵に肯定してもらえた。だから、その恩返しに、眞一郎は乃絵の可能性を肯定する。
一周して、ようやく乃絵のもとに返ってきた自己肯定ですが、そういう意味で、眞一郎を好きになったのは無駄ではなかった。眞一郎の可能性を信じて、それを肯定し続けること。そして、眞一郎が「他人」だとわかってもなお、眞一郎を信じた。眞一郎が自分のものにならないと分かってしまっても、絵本を海まで捨てに行った眞一郎を、乃絵は追いかけたのは、「他人」の眞一郎さえも肯定していたからでしょう。
そして乃絵は「他人」を信じるようになった。「他人」を信じることで、「他人」も自分の可能性を信じてくれるようになった。つまり「信頼」し合えるようになることが、自己肯定といえるのかもしれません。自分のやることを、他人が信頼したうえで、任せてくれたり、応援してくれたり、そうやって評価されることが自己肯定。
自分がやってきたことは、他人が肯定してくれて、初めて自分で肯定できるようになるのかもしれない。自分の足で立てるのは、誰かが自分を信頼してくれているから。エンドロールでの、乃絵が一人で立つ姿にはそんな意味合いがこもっていると思います。そう考えると、あの涙は自分を信頼してくれた眞一郎への感謝の涙とも解釈できます。